医女が宴席に駆り出されるようになったきっかけとは?

「宮廷女官チャングムの誓い(大長今)」で医女と宴会にまつわるエピソードがあったのを覚えている方も多いと思います。チャングムとシンビは宴会に出ろと命じられたにもかかわらず、法度を守って参加しなかったところ、試験で落第させられてしまいました。医女の身分が低いことや、妓生と同じように扱われる存在だったことが記憶に残ったのではないでしょうか。

身分のことは理解できるにしても、なぜ彼女たちが宴会に出るようになったのでしょうか。そのきっかけが『チャングム~』の公式ガイドの片隅に小さく出ていたので、久しぶりに実録サイトに行き、検証してみました。

それは暴君として知られる燕山君の時代に起こりました。燕山8年(1502年)6月のことです。 司憲府が「近來富家大族, 競誇浮靡, 婚需粧具, 務極奢侈(最近、金持ちの婚礼品が贅沢になりすぎてます!)」「婚姻之家, 納采成婚日, (中略)遣醫女撿察(納采日に医女を送って品物を検査させましょう!)」と上奏したことが実録に記されています。(注:カッコ内の言葉は翻訳サイトにかけてから私が適当に書いたものです)このほかにも、男性の役人がしづらいような業務を「ちょっと見てきてよ」「チェックしてきてよ」というように命じられることもあったようです。

さて、めでたい日の持ち物チェックに送られた医女たちは、その後に開かれる宴にそのまま参加するようになりました。このことから彼女たちは「医妓(ウィギ)」「薬房(ヤクパン)妓生」と呼ばれるようになります。

ただし、飲み会大好き!な燕山君も数十人の医女を呼んでいたようなので(私が見つけた記録は燕山8年より後ですが)、この持ち物チェック指令がなかったとしても、医女たちをそのように扱うような土壌がもともとあったという可能性も感じますね。

その後、王座の主が代わった中宗5年(1510年)2月、中宗は医女たちを宴席に呼ぶことを禁じました(いいこともしてるんですね!)。しかし根絶することはなく、このような背景をもとにチャングムやシンビが教授から宴席に呼ばれて困るというエピソードが生み出されたのです。中宗以外の王様も何度も禁じたり罰したりしたものの、実録によると宣祖38年(1605年)には「医女たちが宴会に呼ばれてばっかりで医術を教えられません!」と惠民署提調が訴えたほど。結局この悪しき習慣は李氏朝鮮末期の高宗時代まで続いたそうです。

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