<概略>朝鮮王朝第14代国王・宣祖の側室、朝鮮王朝第16代王・仁祖の祖母。本貫は水原金氏。父は典牲署主薄を務めたキム・ハンウ(金漢佑)またはキム・ハング(金漢耈)、母は孝寧大君(太宗と元敬王后閔氏の息子)の血を引く家門出身で、母の姪は光海君(宣祖と恭嬪金氏の息子)の側室・淑媛シン氏。
明宗(中宗と文定王后尹氏の息子)の側室・淑儀李氏には子供がおらず、遠縁にあたる仁嬪を宮殿で育てていたが、明宗が崩御すると寺に入った。残された幼い仁嬪を不憫に思った仁順王后沈氏(明宗妃=宣祖にとっては大妃)が自分の手伝いをさせていたところを、宣祖に見初められる。宣祖の側室となった当時は側室・恭嬪が宣祖の寵愛を受けていたが、恭嬪が亡くなったのと前後して仁嬪が宣祖の愛情を独占するようになった。
宣祖からの寵愛は長年にわたり、9人もの子供を出産。中でも次男の信城君は宣祖に可愛がられ世子の座にと望まれるも、まだ幼かったこともあり臣下の反対で叶わず、文禄・慶長の役での避難時に義州で逝去した。この戦乱の際、仁嬪は民心の反感を買い、宮殿に投石されたという。宣祖最愛の側室であり、子供たちを実力者と結婚させていた仁嬪が、多方面に及ぶ権力を持っていたのは事実だった。
懿仁王后朴氏が子供のいないままに逝去すると、51歳の宣祖は19歳の仁穆王后金氏を迎える。仁嬪が側室最高位の「嬪」に冊封されたのは、その2年後だった。宣祖が崩御した後は、三男・定遠君の屋敷で暮らし、1613年に59歳で他界。1623年、クーデターにより定遠君の息子・綾陽君が仁祖になった。
<子>
義安君(1577年-1588年)
信城君(1578年-1592年)
定遠君(元宗=仁祖の父)(1580年-1619年)
義昌君(1589年-1645年)
貞愼翁主(1583年-1653年)
貞惠翁主(1584年-1638年)
貞淑翁主(1587年-1627年)
貞安翁主(1590年-1660年)
貞徽翁主(1593年-1653年)
<補足>「王の女」での設定は下女出身でしたが、実際はちょっと違いますね。でもお父さまの役職は祭祀に使う家畜の飼育を管理する典牲署という機関の主薄だったので、ときめいた家門ではないはず。下女とはいかないまでも“仁順王后のお手伝いの女の子”のような存在だったのでしょう。ドラマでは晩年は分別を得て欲を捨てた姿がよく描かれる仁嬪ですが、『朝鮮王朝実録』では「仁嬪と彼女の息子たちは光海君が王になったのが不満で虎視眈々と王位を狙っていた」とはっきり書かれています。そうこなくっちゃ!
ドラマでよく呼ばれている別名「ヤンファダン」は、「養和堂」のこと。仁嬪に与えられていた殿閣の名前のようです。それにしても9人生んだとはすばらしい!寵愛の深さはもちろんのこと、さぞかし健康だったのでしょう。息子たちも早世はしていても2歳とか3歳で亡くなっているわけではなく、10歳以上には成長していますし、娘さんたちも長生き。丈夫な家系なのでしょうね。よくドラマで「子供を◎人生んだ女の持ち物です!」と懐妊のお守りみたいなのを宮女や母親が調達してきますが、仁嬪の着物や下着をもらうほうがよっぽどご利益ありそうです。
なお、先に宣祖の寵愛を受けていた恭嬪との間にはあれこれと側室バトルなイザコザがあったもようです。しかし先に恭嬪が亡くなり、恭嬪の息子・光海君を仁嬪の孫・仁祖が追放し、その後の王は仁嬪の血を引くので、歴史上でも仁嬪の圧倒的勝利。戦乱時の避難でも、懿仁王后は江界へ行き、宣祖は愛する仁嬪を連れて義州へ向かったそうです。懿仁王后がちょっとお気の毒・・・。
<ドラマに見る仁嬪金氏>
「暴君 光海君(原題:回天門)」では、「チャングムの誓い」の大妃役だったオム・ユシンさんが扮しています。悪女キャラではなく、分別を持ちつつ政治にも首を突っ込みながら若い王妃(仁穆王后)をサポートし、宮殿を出てからも気を配っていました。三男の定遠君はならず者設定でした。
「キム尚宮(原題:西宮)」では、女優さんの厚化粧がとっても印象的でした。
「王の女」では、「女人天下」でユン・ウォンヒョンの正妻キム氏を演じたイ・ヘスクさんが担当。宣祖の寵愛を独り占めして高笑いする、ちょっぴり意地悪でお茶目な側室を素敵に演じています。