意外とゆるい?やっぱり厳しい?李氏朝鮮の色んなオキテ

韓国歴史ドラマには、結婚や科挙のことなど、お決まりの厳しいルールが何かと出てきますよね。そのような決まりがあったのは事実だと思いますが、ドラマなのでデフォルメされていることもありますし、李氏朝鮮時代500年の間で変わっていった制度も多々あるようです。細かくはわかりませんが、何冊かの本を読んできた中でなんとなくつかんだことをまとめてみました。あくまで「だいたいこんな感じ」「ざっくりとした流れ」を書いていますので、「特例や詳細は別」な可能性もあります。あしからずご了承ください。

★李氏朝鮮以前(新羅・高麗など)・・・けっこう自由で平等!?
李氏朝鮮ほどの差別はなく、わりと平等。男女も長男次男の区別もなく財産が均等に分与されており、娘でも祭祀を引き継げた。「善徳女王」でキム・ユシンの父キム・ソヒョンがマンミョン公主を見初めて駆け落ちしたというエピソードがで出てくるように、恋愛に関してけっこうフリーな土壌があった!?結婚制度については、正妻>側妻というより重婚(多妻)が主流だったもよう。また、夫の家に入った嫁が姑と夫に尽くすという私たちがよく知るスタイルではなく、夫は妻の実家で妻の両親と暮らすのが普通。同姓(同じ名字)どころか近い血縁者どうしの結婚もガンガンにおこなわれていた。再婚もOK!

★李氏朝鮮創世期(太祖~)・・・社会はすぐには変わらない
表向きは仏教から儒教へと思想変換されたが、まだまだ高麗の価値観や制度が残っていた。建国期を描いた「龍の涙」とそれ以後のドラマを比べるとわかるように、大臣たちの官職名や側室の階級名も異なる。この頃は王族も官職に就いていた。

★李氏朝鮮前期(太宗~成宗の頃)・・・『経国大典』がターニングポイント
自分の生母(神懿王后)だけを正妃とし、異母弟たちの生母(神徳王后)をおとしめたかった太宗が、重婚禁止令を制定。これにより「ただ一人の正妻>その他の妾」が確立し、庶子が格下であることを明確にした。世祖が着手して成宗が完成させた『経国大典』では、新郎が新婦を迎えに行く「親迎礼」や、財産相続については「男女均分相続」が定められた。庶子の相続は嫡子の7分の1~10分の1程度認められていた。また同姓の結婚も禁止。

★李氏朝鮮中前期(中宗~)・・・儒教らしさが定着してガチガチ化
同姓婚禁止や親迎礼がすぐに根付いたわけではなく、特に一般ピープルに浸透するには長い時間がかかった。嫡庶の区別も段々と厳しくなった反面、庶子人口は増加した。科挙は臨時に行われることも多かったが、これに対応するには都に住んでいるほうが圧倒的に有利。コネを使うにも現職の人々に頼むので、時代を経るにつれて在京両班の特権化や特定の家門による合格者独占が進むが、この頃までは「科挙合格で一挙セレブへ!」というドリームが可能だった。

★李氏朝鮮中後期(宣祖~)・・・「乱」で社会が激変
社会が庶子に厳しくなる中、王室は傍系時代に突入し、側室の孫である宣祖が即位。この宣祖時代に起こった「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)」や仁祖時代の「丁卯胡乱・丙子胡乱(清の侵略)」による国家財政の困窮が、様々な仕組みに大きな変化をもたらした。大同法や均役法で税制や軍役を整備。「納粟策」や「空名帖」の実施により、「国にたくさん納めれば身分向上!」が可能になったのもこの時期。庶子は長らく出世の道が閉ざされて制圧されていたが、庶子の数そのものは膨れ上がり集団上訴が相次いでいたため、英祖期には要職に就いても一応OKとなった。

李氏朝鮮後期(正祖~)・・・徐々に解放時代へ
奎章閣に庶子を積極登用したことで知られる正祖は、科挙受験も認めた。純祖以降の外戚による勢道政治で、社会が乱れ、身分制度崩壊が進む。両班バブリーは終わり、財産を守っていくため(分散を防ぐため)、相続制度は「男子優遇」を経て「長男優遇」となっていく。

★李氏朝鮮末期・・・身分制度の崩壊
以前は数%しかいなかった両班が70%を超え、逆に奴婢の割合は数%に激減。私たちがドラマで見て「李氏朝鮮っぽい」と感じているガチガチなあれこれは、実は後から両班になった人々が「両班っぽいじゃーん♪」と取り入れることで、一般庶民に浸透していったという側面もあると思われる(族譜とか同族意識とか)。これにより、セレブから下々まで全ての人々に儒教的な習慣が行き渡り、やがて近代化改革で名実ともに身分制度や科挙は廃止された。

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