王の母でも淑嬪崔氏はナゾ多き女性!?

身分の低さゆえか、情報の少ない淑嬪崔(チェ)氏。ちなみにトンイというのは架空の名前で、実際の本名は不明だそう。「トンイ」の公式ガイドブックには「奴婢だった。生い立ちに謎が多い。記録が少ない」などとあり、プロフィールがほとんど載っていません。「イサン(正祖)」の公式ガイドブックには、「仁顕王后の父が身寄りのないみすぼらしい女の子を連れて来て育てた。雑仕女として宮中に入り、美しさが粛宗の目にとまった」といった内容が書かれています。この公式ガイドブックではこの後もチェ氏の職業を雑仕女として表現。英祖が母(淑嬪)の荒れた手を思い出し、「雑用をしたことがない」と言った貞聖王后との初夜を拒んだというエピソードも掲載されています。

英祖が建立した石碑「淑嬪崔氏神道碑銘」には粛宗2年(1676年)に7才で選抜されて宮殿に入ったとあります。下女(ムスリ)だったか宮女だったのかはわかりませんが、小さな頃から宮殿で働いていたのは事実のようです。後に高宗の後宮が伝え聞いた話によると針房の宮女だったという説もあると韓国wikiに書かれており、針房は至密(チミル)についで格の高い部署とされています。これについて日本語版『朝鮮王朝実録』では、「王室としては彼女がムスリ出身であるのを隠したかったのだろう」と書かれていますし、『朝鮮王朝を生きた人々』(水野俊平著)でも「水汲みであったと国家の正史に記するわけにはいかなかっただろう」とあります。

両親について参照してみたら、意外にもといっては失礼ですがちゃんと記録がありました。父方のご先祖様の役職は追贈かと思われますので実態はよくわかりませんが、母方の祖父は壬辰倭乱で功を立てたとして有名なホン・ケナム(洪季男/洪啓男)。この方は名門の南陽洪氏(中宗側室の熙嬪と同じ家門)ですが、庶子のようです。庶子の家系なのでやっぱり身分は低いのかなとも思うのですが、この頃は戦乱で手柄を立てれば身分が向上できたともいわれています。淑嬪チェ氏は私が勝手に想像していたような貧しいご家庭出身ではないのかも?とも思いました。両親の生没年を参照すると彼女が幼い頃に逝去しているので(1672年・1673年没)、暮らしに困って宮殿に入った(仁顕王后父のツテで?)・・・などなど色々と考えましたが、ナゾです!

余談ですが淑嬪チェ氏の父や祖父などに軒並み官職が追贈されているほか、兄弟の子孫も官職を得るなどの恩恵を賜りました。甥は武科に合格して孟山県監を務めているようです。

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