張禧嬪との対立で有名な淑嬪崔氏(1670-1718年)

<概略>朝鮮王朝第19代国王・粛宗の側室。本貫は海州崔氏。父は領議政を追贈されたチェ・ヒョウォン(崔孝元)、母はホン氏(南陽洪氏出身)。詳しい記録が少なく、仁顕王后付きの下女(ムスリ)または針房出身の宮女などという説がある。廃位された仁顕王后のために部屋で祈願していたところを粛宗が訪ねたという有名なエピソードは『随聞録』に記されている。第一子の懐妊が判明した粛宗19年(1693年)に淑媛に封じられ、次に懐妊した粛宗20年(1694年)には淑儀に、最終的には粛宗25年(1699年)に淑嬪となる。与えられた殿閣は宝慶堂。西人派と南人派の党争が激しい中、西人老論派のキム・チュンテク(金春澤)と手を組み、仁顕王后の復位と禧嬪張氏の追放に一役買った。3人の王子(2人は夭折、1人が後の英祖)を生み、49歳で延礽君の屋敷にて病死。後に英祖として即位した延礽君が和敬淑嬪の諡号を贈り、陵墓や霊廟の名称も昇格させている。

<子>
永寿君(1693年-1693年)
延礽君(英祖)(1694年-1776年)
不明・無封(1698年-1698年)

<補足>どの書籍でも情報が少ない淑嬪チェ氏。英祖が建立した石碑「淑嬪崔氏神道碑銘」には「嬪天姿沈凝簡默喜怒不形於色奉侍」とあり、沈着で静かで控えめな人だったそうです。禧嬪チャン氏との確執は事実で、毒を盛られそうになったこともあったとかなかったとか・・・。偏愛の激しい粛宗に淑嬪チェ氏が禧嬪や南人派の醜聞を吹き込み、換局(政権交代)を後押ししたのは史実のようです。

ドラマでは仁顕王后への忠誠心やイイ人キャラ的な部分が描かれることも多いですが、冷静な目で見れば、子供ができなかった仁顕王后と身分の低い淑嬪チェ氏はお互いにいい後ろ盾。共通の敵である禧嬪チャン氏と戦うための利害関係で結ばれていたのです。仁顕王后が逝去すると、淑嬪チェ氏は自分と延礽君を守るために粛宗に禧嬪チャン氏の悪事を吹き込み、天敵の禧嬪チャン氏は賜薬を下されるまでに至ります。案外策士だったのかもしれません。

それにしても夭折しているとはいえ、3人産んで3人とも王子とはすごい!ですよね。巡回した韓国サイトや「王妃たちの朝鮮王朝」には、淑嬪のゴシップが書かれています。それは、キム・チュンテクと淑嬪がデキていたというウワサ。なんと英祖は淑嬪とキム・チュンテクの子供という風評があったそうですよ。たしかにドラマでもちょくちょく会ってましたけどねえ・・・。

<ドラマにみる淑嬪崔氏>
「妖婦 張禧嬪」では、ナム・ジュヒさんという女優さんが、腰が低くおとなしいキャラの淑嬪を演じました。禧嬪と対抗したり、蹴落とすために積極的に暗躍したりといったシーンもほとんどありませんでした。

キム・ヘスさん主演の「張禧嬪」では、パク・イェジンさんが好演。仁顕王后の復位を願い最初は息を潜めながら寵愛を受けて政争の片棒をかつぎ、しだいに強気になりスケバン禧嬪とタイマンをはるようになる変化がよかったです。

「トンイ(同伊)」では、ハン・ヒョジュさんがお茶目なラッキー下女に扮し、監察府の宮女も体験。数々の事件を解決しながら、ときには義州へも逃亡するというドタバタご多忙ぶり。粛宗とはラブコメのように愛を育んでいきます。

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