<概略>朝鮮王朝第11代国王・中宗の正妃。本貫は坡平尹氏。父は坡山府院君ユン・ジイム(尹之任)、母は全城府夫人李氏(全州李氏出身)。没落両班出身で平民のような生活を送っていたところを、遠縁のユン・イム(尹任)の妹(章敬王后)が残した大君(後の仁宗)を庇護するために白羽の矢を立てられ、1517年に3人目の中宗妃となる。長らく王子を生めず、功臣勢力と結びついた側室との権力闘争に苦労した末に慶源大君(後の明宗)を出産。仁宗が短い治世を終えた後(文定王后による謀殺説もあり)、息子が王位につくと垂簾聴政をおこない、弟ユン・ウォンヒョン(尹元衡)が率いる小尹勢力を重用し、ユン・イムが率いる大尹勢力や士林派勢力を一掃。20年にわたり専制政治を敷き、この世の春を謳歌する。仏教保護政策をとり、僧侶ポウ(普雨)を重用したことでも知られる。
<子>
懿惠公主(1521年-1564年)
孝順公主(1522年-?)
敬顯公主(1530年-1584年)
慶源大君(明宗)(1534年-1567年)
仁順公主(1542年-?)おそらく夭折
<補足>歴史本を読むと、かなり客観的な記述の本でも文定王后のワルさ描写がすごくて笑えます。意地悪く猜疑心が強いだの、そのあくどさに息子の明宗が悩んだだの、悪口オンパレード。ことあるごとに明宗に無理を言い、思い通りにならないと罵ったり叩いたりしたそうです(息子とはいえ一応王様ですよ)。文定王后の横暴っぷりには皆が辟易していたようで、明宗も臣下も文定王后の死を首を長くして待っていたとか(どんな大王大妃なんだか)。そして崩御すると、社会は急速に平和を取り戻したそうです。
入宮前は貧しい両班だった文定王后。ですが名門の坡平尹氏出身だけあって、遠戚には歴史ドラマに登場した人々がたくさんいます。李氏朝鮮初期のドラマに出てくる坡平尹氏出身のユンさんは、どこかで文定王后とつながっている可能性が大!ですよ。揀擇のときに有力視されていたのは他の大臣勢力が推していた別の娘だったものの、しユン・イムがうまく立ち回り、王妃の座をゲットできたようです。
ちなみに気になる容貌のほうはといえば、それほどの美女ではなかった、というか綺麗な人ではなかったと考えてよさそうです。ライバルの敬嬪パク氏は燕山君時代に美女として招集されたくらいだったので、少なくとも平均以上のルックスだったでしょうし、熙嬪(ヒビン)ホン氏は見た目というよりも穏やかな人柄と父ホン・ギョンジュの勢力で存在感を示していたもよう。並みいる側室の中で文定王后の容姿はどちらかといえば残念で、家門の勢いもなく、おまけに長らく娘しか生まなかったので、さぞかし肩身が狭かったものと思われます。が、生来の気の強さからか、中宗との仲は「尻に敷いていた」とあります(爆)。
文定王后は早くから仏教をあつく信仰していましたが、中宗が崩御して晴れて好き勝手できる身分になるとあからさまに仏教を保護し、仏教に対する主張を遺書に書いたほどの信仰心でした。しばしば普雨が出入りすることから、男女関係の噂もあったとか。
<ドラマにみる文定王后>
「女人天下」では、お美しいチョン・インファさんが好演。兄(実際は弟)の側妻であるチョン・ナンジョンを手先に、政敵を倒してのし上がっていくさまが描かれています。側室・敬嬪とのバトルも見もの。
「大長今(宮廷女官チャングムの誓い)」では、主人公ソ・チャングムの後援者として登場しています。途中で、医術を使って世子(前王妃の息子)を謀殺せよと命令してチャングムを困らせますが、その他では総じてチャングムの後ろ盾。「女人天下」を見ると、料理にあれこれ口を出している暇はなさそうですが。
「王朝の暁~趙光祖伝~」では、まだまだ幼いキム・ミンジョンさん(「王と妃」で悲しい定順王后役を好演した方)が演じました。次のお妃候補として幼い文定王后に目をつけたユン・イムが「痩せているからとても子供は産めないだろう」と考えを巡らせるシーンがあったので、もしかしたらそういうエピソードが伝わっているのかもしれません。朝廷の情勢を見ながら時には敬嬪と手を組んだり、廃妃シン氏を復位させまいと実家の弟に貼り紙させたりしていましたが、「女人天下」ほどの悪辣キャラではなかったですね。
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